抱えている諸問題が、どれもこれも、猫一匹飼えばほとんど解決する、という結論に達する。

しかしながら我が家は零細マンションであり、ペット禁止で、台所の壁の一部分が薄く著しく安普請で、隣人の生活音が響き、とても猫を飼える環境には無いのである。たちまちにして「通報→土下座→強制退去→路頭に迷いホームレス化」なのである。

猫。

猫さえいれば、僕の不安、焦燥、孤独、不穏、全てたちまちにして霧散することは間違い無いのだ。

しかしながら!

僕は草食動物のようにルールには従い、お上の言うことにヘーコラするような人間なので、「禁止」と定められている住居にて、猫を飼うような勇気が無いのである。隣人は謎のおっさんなため、あらゆる手段を講じ言いくるめることは容易であると思う。

しかし、場の秩序などという極めてくだらないものに包囲され、従うことを良しとしてしまう自分がおり、どうしても突破することが出来ないでいる。

猫。

猫。

猫。

三毛。虎。ぶち。まだら。純白。漆黒。

あんなにも傲慢と甘えを両立させ、かつ、媚びもせず、支配を拒む生き物が他にいるだろうか。本当に不思議だ。我関せず、を貫き通しつつ、生存のための一切を人間任せにし、生活に浸食しながら、媚びず、そのくせ的確に甘えを見せてくる。一方でこちらの寂しさを千里眼で見抜き、素知らぬふりをしながら埋めてくれる。普遍的なくせに、希有な。平凡であり、唯一な。愛おしい。美しい。猫。

とはいえ求めても現状、僕は猫を飼えない。

仕方ないので、住居の近くの民家にて起居し、いつも屋外をうろうろしている三毛を異様なまでに可愛がり、溜飲を下げている。

人を怖がらず、近づくと「にゃあ」と一声発し、耳をすり寄せてくる三毛。三毛なので雄ではないだろうけど、ミケ蔵(Mikezou)と勝手に名付けている。出会うたび、撫で、頬摺りし、溺愛する。

深夜に徘徊する際、たまに遭遇すると、五分ほど会話を交わす。その日考えたことを訥々と語り、「にゃあ」と返事を貰う。反論または同意として、人差し指を舐めてもらう。

猫を必要とする人の寂寥は、猫でしか埋められないのだろうか。人では無理なのだろうか。

誰かの百万言より、誰かの体温より、猫の「にゃあ」の一鳴のほうが遙かに響いてしまうのは、どういうことなのだろうか。ここが、言葉の限界なのだろうか。ぼーっと空を眺めながら、「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」と歌ってるように見える。猫。